「『弱キャラ友崎くん』が映し出す現代資本主義の袋小路」に対する現在袋小路マンによるクソデカ感情 - mirko-sanのブログ
ちょっと前に上記の記事を書いたんだけど、あんだけ言っておいて作品の方見ないのはどうなのか、と思ったので、全12話見ました。
感想を述べます。ネタバレあります。
総評:「弱キャラ友崎くん」はどういう話だったか
これは「封建社会的思考であった友崎くんが、自由競争社会に参入して、決別し、やりたいこと至上主義に至るまでの軌跡」です。
色々Twitterで愚痴を言いましたが、正直この流れは人間の成長として悪くない成長だと思いました。
なぜかというと、「人生に負けたと思う人間が信じることが出来る数少ない希望のひとつが『自由競争社会でワンチャン』だから」です。
自分にも今の社会でワンチャンある、そういう思考が人生負けたと思う人間に光を与えてくれます。本当にワンチャンあるか、その試行錯誤の仕方は正しいのかはこの際どうでもいい。
「ワンチャンある」という気持ち、人生負けが込んだときに持つの厳しいですよね。
1話の友崎くんも「でも生まれ持った顔の作りは変えられないし…」というようなことを言っていました。「でも○○だし(無理)」これはある意味正しいからこそ反論はしにくい。
でも逆に言うと「でも自分が勝てる土俵を探したら勝てる」これもまた自由競争社会の本質であることを「弱キャラ友崎くん」のメインヒロインである日南葵は言っています。
だけど、友崎くんは終わりなき自己啓発と決別します。
その理由の一つとして「自己啓発的攻略では菊池さんに受け入れられないから」があるでしょう。
9話にて、友崎くんは菊池風香ちゃんという女の子とデートをします。そこで「自分が話題を出しながら場をつなぐというリア充スキルが使えるようになってるんだ」と自分の信じてきたスキル理論が自分の中で成熟したことを実感します。
ですが、そのデート相手である菊池風香ちゃんに「友崎くんって急にすごくしゃべりやすくなったり、逆に急にしゃべりづらくなったりします」と言われます。
その結果友崎くんは11話で葵に「それって俺の作ってた仮面を見抜かれてたってことだよな」「俺は『本当にやりたいこと』を優先したい」と言い、日南葵(目標を立て、自由競争社会で勝ち抜いていくということのメタファー)と決別します。
このあたりの話の展開で興味深かったのが「仮面を被って、周りからどう思われているかを気にしていない自分を承認されたい」という欲求への言及です。
水沢という、いわゆるリア充のキャラクラーが11話で「俺はさ、ただ単にうまいことこなしているだけなんだよ」という本音を吐露して、葵のことが好きだと告白します。
その場面での「いつか葵の本音を俺が聞きたいって思った」というセリフは、「好きな相手には仮面ではなく本音で接し、受け入れてもらいたい」という欲求をあらわしていると思いました。
それは菊池さんが「スキルを使わないほうが話やすいと言ってくれる存在」として描かれていることにも象徴されていて、自由競争社会である程度の成功を収めた人間が「本当の○○」に惹かれていく過程が分かりやすく描写されていると思いました。
そして12話で「いいか日南、お前は人生をプレイヤー目線でうまいことこなすばっかりで、本気の楽しさを知らないだろ」「今や人生というゲームを楽しむことに関してはお前よりも俺のほうが上なんだよ!」と言ってのけます。
ここまでの過程で、友崎くんは「自己啓発的攻略では仮面を脱ぐことができない」「仮面は無くても勝てる土俵がある(ややアタファミ全一という設定に守られていることですが…)」ことを知ったのです。
そして、彼なりの理論を構築し、アニメは終わりました。
ですが、彼の理論は本当に「自由競争社会への救い」を明示できているのかは疑問が残りました。
私には正直、なにも明示できていないように思え、それがなお一層「自由競争社会(現代資本主義)の袋小路」を描いているように思えました。
これが私の総評です。
封建社会的思考は現代では救いは少ない
1話の友崎くんの発言を見ていきます。
「人生は神ゲー」だのという有名なコピペがあるけど、俺から言わせればそんなのはウソだ。顔や体格や年齢で差別され悪いようにとられたり、どんなに頑張っても本番で体調を崩したら全てムダになったり。そんな理不尽なルールばかりがまかり通っている。
たまたま強キャラで生まれてイージーモードで無双して運良く楽してるだけのにわかゲーマーに人生を語る資格はない。
つまりこれらを丸めると「自分は幸福に生きる権利を有していない」「自分から幸福に見える人間はその権利を生まれながらにして有しており、その権利により幸福なのである」というような考えだと思う。
私はこれを「封建社会的思考」と名付けた。
この思考において、不幸は「自分の生まれによるもの」であり、半ば義務である。そしてまた幸福も生まれによるもので、その幸福のは保証されているものである。「強キャラは人生イージーモード」と称されていることにその片鱗がうかがえる。強キャラに生まれさえすれば人生無双できることが保障されているという理屈である。
この考えは、現代では救いが少ないように思う。
なぜかというと、現代の強者は不幸を義務であるととらえていないからである。
これは私の考えであって、私は中世ヨーロッパの封建制下の民衆の思考に詳しくもないし、現代の強者についても詳しいわけではないんだけど、なんとなく「現代の強者は弱者を『努力不足』ととらえてるんだろうな」ってことは、弱者の思考になったことのある諸君なら肌で感じられることだと思う。
1話の日南葵の発言を見ていこう。
リア充みたいな人生は嫌い?リア充の楽しさを知ったうえでそう言うなら筋は通ってるわ。でも、あなたはリア充の人生味わったことがないわよね?
負けたのをゲームのせいにするなんて恥ずかしくないの?
私はあらゆることを努力だけで勝ち抜いてきたの
現代の強者のメンタリティはだいたいこれだと思う。フルボッコである。
つまり「私はあらゆることを努力で手に入れてきた」「弱者は人生のゲーム性を理解していない」という強い自己肯定感と弱者への蔑みである。強者にとって弱者は「生まれながらに不幸を義務付けられている存在」ではなく「努力すれば得られる利益を得ていない蔑みの対象」なので、封建社会的思考を持つ限り、この蔑みを受けることになる。
もちろん、その蔑みへのカウンターはいくつもある。自分を弱者としたうえで
たまたま強キャラで生まれてイージーモードで無双して運良く楽してるだけのにわかゲーマーに人生を語る資格はない。
とするも良し、現代的強者の提示する現代のメリットを否定するも良し、いろいろある。ただ、この作品の提示したものが「自由競争社会に自分も参入して勝者側に移動する」であったというだけのことである。
そして、これは現代の理論的に物事を解決していくことを良しとする風潮とマッチすると思うので、私はこれを否定しない。
なので私は「弱キャラ友崎くんはいいアニメだった」と思います。
それでも自由競争社会への参入は友崎くんを救わなかった
ですが、結局のところ、自由競争社会への参入は友崎くんを救いませんでした。
作品では大きく以下の理由が提示されています。
- 1位以外は負けだから(みみみ選挙編)
- リア充的スキルが通用しない人間もいるから(菊池さんデート編)
- 仮面越しでしか人と関われないから(水沢告白編)
おおまかに上記の理由があったと思います。
自由競争社会で勝ち続けるのもしんどいし、勝ったとしても全員に好かれるわけではないし、勝つために自分を偽ることに思うところもある、というのは非常にリアルな感情だと思いますし、理解はできます。
ただ、上記の問題に直面した後の友崎くんの思考の変化については私は思うところがあります。
「やりたいこと」をするというのは救いなのか
12話の友崎くんのセリフを振り返ります。
いいか日南、お前は人生をプレイヤー目線でうまいことこなすばっかりで、本気の楽しさを知らないだろ
これはもちろん、1話の日南葵のセリフ
リア充みたいな人生は嫌い?リア充の楽しさを知ったうえでそう言うなら筋は通ってるわ。でも、あなたはリア充の人生味わったことがないわよね?
へのカウンターでしょう。
ですが、私は友崎くんのセリフは「自由競争社会へのカウンターにはなっていない」と思うのです。
それはなぜかというと、「『本気の楽しさ』は勝者にのみ与えられるものだから」です。
これは作品中でも語られていて、みみみ選挙編でみみみは選挙に敗退しますがそれでみみみは晴れやかな気持ちになっていたでしょうか?
違いますよね。
みみみは、葵に負けたことで意気消沈していました。
そこからでもわかる通り「自由競争社会に参入する」という意識がある以上「本気で取り組んだから負けても楽しかった」と思うことは困難なのです。
「『本気の楽しさ』は勝者にのみ与えられるもの」なのです。
これは私は作品の全体の流れを通して、若干矛盾していることのように思えました。
「弱キャラ友崎くん」が「自由競争社会へのカウンター」として、もっと別角度での救いを提示していたら、この作品はもっと面白いものだったように思います。
総評でも述べた通りですが、この作品は「自由競争社会の袋小路を描いている」というところに留まってしまったように思います。
なので友崎くんは紆余曲折の果てに「やりたいこと至上主義」に至っただけだし、たぶんその道の先にはみみみが直面した壁があることでしょう。
さいごに
私は「弱キャラ友崎くん」というアニメは解釈違いだらけで、考え方としてはまったくもって「好みじゃないアニメ」だったのですが、非常に「面白いアニメ」ではありました。
鬱屈した少年少女期を過ごした人、今まさに鬱屈した少年少女期を過ごしている人が見たら何かしら思うところがあるアニメだと思います。
ぜひ今からでも見てみて下さい。