本当はもっと短く言語化したいが出来なかった、私が大事にしている概念

cocolog-nifty.hatenablog.com

上記の記事みて、私もなんかうまいこと職場で流行らせたい概念がいろいろあるはずなのだけど、短く言い表せないし流行りそうにないので「本当はもっと短く言語化したいが出来なかった、私が大事にしている概念」として放流しておく。「本当はもっと短く言語化したいが出来なかった、私が大事にしている概念」も長い。もっと短く言いたいけど言えなかった。

自信満々でプレゼンできないなら聞いておけ

「なんか仕事でわからないことが存在するけど聞きにくい」「なんか聞かなくてもいっかなー」を戒める概念。
自信満々でプレゼンできないのなら聞いておけと思う。人に質問することはいいことしかない。みんな大好き4象限のアレにしてみよう。

この通り、(1)は教える必要があるし、(2)は教える人の知識不足が今までは分かっていなかったがあなたが聞いたおかげで知るべきことが分かったので聞いてよい。(3)の場合は聞かれた人が「それは知る必要はあまりないよ」と教える側が教えてあげればいいだけだし(4)は教える人も知らないし知っていなくても困ってないよって言われるだけである。何も困ることは無い。

ただ、聞かないと何もいいことがないのだ。

(1)と(2)が変わっていて、(1)の場合は業務的に知る必要があることを放置していたらいつか知らないことがバレるのである。聞かれた人は「これ前やったはずなのに聞かれなかったよなー、今さら聞かれてもなー、まあ教えるけど」って思う 可能性がある
(2)の場合はもう少し面倒で、おそらく一度聞かなかった人が聞く場合は必要に迫られてやむにやまれなくなって聞くときだろうが、聞かれた人が知らなかった場合は「うわー、知らないこと聞かれたよ。しかもよく聞くとこれ知らないといけないことだよ。でも知らないしなー、誰かに聞いたり自分が調べないとなー」と思う ことがある
つまりなにもいい効果がないのだ。

これを回避するには、「一度分からないなと思って聞かなかったことは自分一人で裏でコソコソ学習しておいて、分からないことを分かることにする活動を絶え間なくする」とかがある。
まああまり現実的ではない。
少なくとも私はできなかった。
「いや、自分は上手くやれる」と思う人はそうすることを否定はしないが、とにかく分からないことは聞いておこうと思っている。そして理解する。本当に大事。

たまに「なんもわかんねー!!!理解するのもつれえ!!!!!しらん!!!!」みたいに思う夜もある。人間なので。でもそういうときは気分の波形がマイナスに振れているときだけで、基本的には分からないことは理解したほうがいいし、大抵の場合すでに知っている人の助けを借りたほうが早いと思っている。そんな感じ。

甘えられるところはとことん甘える代わりに、甘えられないところにはとことんシビアになれ

手を抜けるところはとことん手を抜いて、手が抜けないならとことんシビアにやるべきだということ。

上手いたとえが出てこないのだが、たとえば私は高卒である。実家はわりと金が無かった。どれくらい金がないとかを細かく話すと本当に金がないのかの判定は人によって受ける印象が違うだろうから細かく書かないけど、まあわりと金はなかった。

でもまあ今はいろいろミラクルもあり自分の努力もあり高卒の割には自活出来ている。 小中高すべて公立高校で学習塾なども行っていないので、かなりコスパのいい子供だったのではと思う。

さて、こういう「自分は学歴ないけど今はうんぬん」みたいなことを言う人のなかには「親のすねをかじるのは甘え」という考えの人もいるかもしれない。

でも私は「親のすねを齧るのは甘え」とは まったく思っていない 。むしろ「 親のすねは齧れるだけ齧れ 」と思っているし「 甘えられるものにはとことん甘えろ 」と思っている。 単にその方が効率的だからだ。
利用できるリソースはすべて利用すべきだし、ほかにも上手く言えないけど「 やらなければならないことは、いつかどんな形であれ成し遂げられる 」という思いがある。
苦労してきた自負がある人の中には「自分はあの頃の苦労があったから、これこれこういうときにこのような成果が出せた」とか思っている人もいるかもしれない。実際私もそう思うことがある。「それに比べて誰々はこういうときにこういう成果が出せないから楽してきたのね」とか思うこともあるだろう。実際言う通りなのかもしれない。でも、その人がそういう成果を出せないのは別にそういう成果なんて出さなくても困らないからなのではないか?と自分は思う。別の部分で成果を出していればこの部分で成果を出す必要は無いのかもしれない。

もうちょっといいかえると、いわばなにか習熟を必要とするゲームがあるとして(サッカーとか、野球とか?なんでもいい) 辛酸をなめたからこそ点が取れる場合もあれば、そんな苦労をしなくても取れる点もある と思う。 そして、少し生きているとわかることだが、人間の評価ってある程度までいかないと1点は1点としか見られないわけで「この点を取るには眠れぬ夜もあっただろう!」みたいに見られることはあまりないわけである。「テクニカルに点がとれたなー、これは自分のあの経験が生きたな~~」とか思って気分がいいのは自分だけである。まあ、自分の楽しみとしてテクニカルに点が取れることを楽しむことも悪いことではないが、正直言うとコスパが悪いわけである。

つまりは「そこまで努力しなくても得られる点数を拾っているだけでボーダーラインを超えられるレベルまでは、とにかく得点を稼ぐことに集中すべきで、でもその先に工夫しないと得られない点を得たければ辛酸をなめるような努力が必要になってくる」とかそんなことを言いたいわけです。
なので、その努力が必要とあれば「それに比べて誰々はこういうときにこういう成果が出せないから楽してきたのね」と自分が思うような人もいつかはその努力をするはずだし、逆にだれもそんな努力を死ぬまでしないならば、残念ながら私(もしくはあなた)がした苦労はいわばオプショナルな、自分にだけ必要だった努力であって、それを他人に向けて誇ったり指示したりするのはおかしな話だと思うわけです。

ただ、他人に対して誇るのは違うというだけで、自分をなしている要素であることには間違いないと思います。

それが「手が抜けないならとことんシビアにやるべきだ」という部分。
私は大学を出ていなくていくつか困ることがあったわけですけど、それでも自由な生活を諦めたくなかったので、それなりに頑張りました。
それは大学に進学するときに金銭面などで困ることが無かった人はする必要のない苦労も含まれております。

これは何のデータも無いですが、「こんな状況厳しすぎる。勝ち筋が見えない」というときに、諦めてその先を考えることを放棄してしまう人は多いのではないかと思います。
でも、それは愚策だと思っていて、現実問題として降りかかってきていることについて「状況が悪いから何もしない」というのはいわば不良債権をただただ握り続けるようなものだと思っています。状況が悪ければその場を放棄して撤退する、別の状況で再帰をはかる、なにかしらの対策を取る必要があって、手が抜けない問題にはとことんシビアに向き合って自分なりの答えを出すべきだと思います。
そして、そうやって答えを出して対処することはとても立派なことだと思います。誇っていい。他人には必要ないことかもしれないけど、私(もしくはあなた)には必要なことだったのです。

おまわりさんの前でできることなら何してもいい

人間のアウトセーフ判定に使っている基準。

なんか失礼なことしてきた人がいたら内心「おまわりさんの前でもそれできるの?」と思っている。割と真面目に、失礼な人には「それおまわりさんの前でもできます?」って聞きたいなって思っているけど、まあ失礼な人にそんなことを面と向かって言ったら最悪ぶん殴られるだろうから言ってない。

もちろん私もおまわりさんの前でできることなら何してもいいと思って生きている。だっておまわりさんの前でもできるんだからしてもよくない?

あなたにも私にも拒否する権利がある

ミランダ警告 じゃないけど、私は大抵の質問とか要求とかなにかしらすべて「あなたには拒否する権利がある」って思っている。本当に許されるなら、すべての発言にこれをつけたいくらいである。

あなたには拒否する権利があるし、私にもある。拒否されたら「拒否されたなー」って思うとか「なんで?」って聞くとかしたらいいと思っていて、拒否したければしたらいいわけである。本当にすべての発言にこれをつけたい。


以上、大事にしている概念でした。

補足

4象限は miro をつかうと簡単にそれっぽく作図できます。便利。